「気を付け、礼!」という号令がある。
これで授業を始めている学級は多いと思う。
私もそうしてきた。
さる附属の小学校へ授業を見に行ったときのことだ。
まったく別の号令に出会った。
付属小でしていた「号令」
多くの参観者が見ている中、
姿勢を正して! という声が教室に響き渡った。
日直が発した言葉を各自も言いながら背筋をぴんとさせる子ども達。
これから5時間目の授業を始めましょう、に続いて
全員が「始めましょう」と唱和したのだった。
自分の学級とまるで違う号令。
授業に対する考え方からして違う。
そう思ったのだった。
ちょっと考えてみる。
「姿勢を正して」
これは、気持ちを切り替えよ、という指示だ。
それに続く「これから~の授業を始めましょう」はどうか。
遊びましょう、食べましょうなどと同様、みんなで取組んでいこう、という投げかけだ。
授業は、いっしょに考え、教え合ったりする時間である。
そのような学び合いのある教室にしていこう、と呼びかけているのであろう。
一方の「気を付け、礼!」は、どうだ。
これにはお辞儀が入る。
生徒と教師の関係をこの動きが表象している。ここが前者と決定的に違う。
師から授かる(師が授ける)もの、という捉え方からこの号令になったのではないか(と思える)。
このように考えてみると、「授業」というものの捉え方がまるで違う。
それが、号令の違いになっているようだ。
どっちでもいい
2つの号令、それぞれに根拠となる考えがある。
自分はどちらの側に立つのか、という問いが浮かぶが、答えは
「どっちだっていい」だ。
或る意味、授業は強制である。
教科と指導内容は決められており、計画にもとづいて指導時数もその時期も決まっている。
気分が乗らなくても、イヤでも子どもは学校へ行かなければならない。
そういう仕組みになっている。
そうした「強制の枠」の中にも教師の熱意や子どもへの慈しみがあって、
教えを受ける側には謝恩の気持ちがわいて「お辞儀」という形になっていると考えられる。
「気を付け、礼!」は礼儀としてあるべき所作を「教育(強制)」していると見ることもできる。
授業はいくつもの道徳的なものに支えられて進行していく。
お辞儀も、言葉遣いも、物の取り扱いも指導の対象となることがある。
授業がその目標へと展開していく中で、
子ども達相互の関わり合いが重要な作用をしているのも実感するし、積極的に取り入れてもいる。
そのような中での学びの獲得の時間は、個人的な営みではない。
そのことを確認する場が「気を付け」であったり「始めましょう」であったりになっているようだ。
どちらの号令がいいか、という問題ではない。
「授業の入口」のことなのだから、重い扉でない方がよい。
要は、子ども達がすうっと授業の中に入っていけばいいのではないか。
わくわくしながら入ってもらうのが一番いいだろう。
号令で始めない授業
ふと、思い出した。
いくつもの教科がある中で、不思議とこれだけは号令をかけないで始める教科があった。
体育だ。
これだけは、「気を付け、礼!」をしないで始まる。
「集合!」とか、「2人組になりましょう!」とか、
いきなりの指示で始めている。
読者のみなさんの学級はどうか。
どのような「始まり方」をされているのだろうか?
私の場合、なぜ号令をしないのか。
する必要を感じないのだ。
そもそも、授業を前にしての状態が違っている。
子ども達は、もうその気になっているのだ。
生来、からだを動かしたい時期の子ども達は、体育が大好きだ。
指示がなくても体育着に着替えている。
中止などしたら大ブーイングである。
雨の日、体育ができないと分かっているところへ、
「体育館でできる」と知らされたときの喜びようといったらない。
「先生、今日の体育は〇〇だよね」と話しかけてくる子もいる。
わくわくしているのだ。
すでに気持ちが授業に向かっている。
「始めましょう」などと号令をかけるまでもない。
翻って、
国語や算数、
理科も社会の授業もほかの教科もそのようにできないか、と思う。
お辞儀をされるような立派な授業をするわけでもないし、
すでにやる気十分なら、それをいちいち確認し合うこともない。
そうであるなら号令は要らない。
やはり、要らない
時を経て、学級を持たない立場となった。
級外の職員である。
初任者指導の担当となった。
直接の指導員ではないのだが、授業は見に行っていた。
彼女は、学級経営にてこずっていた。
「気を付け!」がかかってもそうならない。
私語がやまず、いつまでも静かにならない。
だから日直の子どもが困っている。
何とか「気を付け、礼」ができてもすぐおしゃべりが再開してしまい、
彼女は「号令のやり直し」をさせていた。
「形」から学級をつくっていこうという意図は分かるが、
号令だけで3分近く経過していた。
こうした有様になっているのは、たぶんこういうことだ。
これから始まる授業には期待していません、という子ども達のメッセージなのだ。
残酷なことだが、それが遠慮なく目に見える形で出てしまっているということなのだ。
この学級では号令をする意味がない。
礼(お辞儀)は形だけだし、けじめがついたわけでもない。
彼女が力を注ぐべきは、授業改善だ。
今日はどんな授業だろう、わくわくするなあ、などと子ども達が思っていたら
授業はすうっと始まるだろう。
私語をやめ、前のめりになって先生の第一声を待つだろう。
だが、初任者には無理な話だ。
わくわくするような授業をするなんて。
初任でなくてもきびしい。
毎日泥沼に嵌っているような忙しさにいる。
仕事は授業準備以外にもある。わんさかある。
教員の道を歩き続けるなら、現状の課題を少しずつ乗り越えていかなければならない。
それは、初任者に限った話ではない。
号令一つで授業がやりやすくなるなど、ありはしない。
形だけで意味もない号令は要らない。
こうすればいい。
チャイムが鳴るなら、それが授業時間の「始まりの合図」。
各自が気持ちを切り替える知らせであり、先生の出番到来である。
先生は子ども達を授業にぐっと引き込むような指示を出す。投げかけを行う。
本時の核となる部分へと繋がっていくよう、意図した「始め方」をするのだ。
TV番組と同じだ。
視聴者を引き付けるオープニングで始まるではないか。
いちいち「これから〇〇を始めます」なんてやらない。
授業も同じ。
チャンネルを変えられないように、進めなくてはならない。
号令は要らない。
そう思うようになった。
号令を待たない。
ある年から、6年生の理科授業を受け持つことになった。
4つのクラスで授業をする「専科」である。
教室に入っていくとすぐ号令がかかる。
号令はなくてもいい、と思っているがされるに任せている。
そのクラスの習慣だから、敢えてやめさせることもない。
ある学級は、
「よろしくお願いします。」と全員が声を揃えて言うから
こう返した。
「はい。お願いされました。 頑張りまっす!」
けらけらと笑いが起きた。
次の日も、その次の授業の日も、毎回「お願いします」という。
こっちもその都度「はい、お願いされました。」と答えるから、そのやりとりが妙に可笑しいらしく、
子ども達がにこにこしている。
教室はからりと気持ちの良い空気になって授業が始められた。
当たり前の話だが、
お願いされなくても、子ども達が授業に乗り気でなくても、
授業はしなくてはならない。頑張ってやらなくてはいけない。それで俸給をいただいている。
次のクラスに行くと、どうしたわけか号令がなかなかかからない。
誰が言うのか担当が分からなくなっているらしい。
日直が欠席でもしているのだろうか。
この「待っている状態」というのが、もどかしい。
数秒たりとも授業時間は無駄にしたくない、と思っているので、
号令があろうがなかろうが授業を始めてしまおう、となる。
頭はフル回転を始める。
号令に変わる工夫をしなくてはならない。
一発で子ども達の頭を授業に切り替えるにはどうするか。
そんなことがあって、授業の始め方を大切に考えるようになっていった。
始め方は様々。工夫して臨む
号令は要らない。
授業の始め方は様々あり、様々に工夫できる。
号令は無い方がすっきりと始められる。
どのように工夫できるか?
世間話から始まったのに、気が付いたら授業になっていた、というのは理想の展開だ。
その世間話というのは、落語に例えると「枕」である。
釣りに例えると、
「入れ食い」状態になる「まき餌」のような導入を開発したい。
子ども達が落ち着いていないとみれば、集中させるような「始め方」になるし、
全員が揃っていない(数人が係の仕事か何かでいない)となれば、楽しい話をしてそのすき間をうめる。
子ども達を授業に引きつけるような始まり方をしたいから、号令は蛇足だ。
要らない。
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