国語授業における「音読」について記事にしました。
少しでも、先生方の授業づくり等の参考になりましたら、なりよりです。
1.「最初の1行すら 読めません」
2.読んでくれる人! と言って始まる初任の授業 →Jump there.
3.音読の力を育てる方向へ
4.すらすら読めない、は学力向上に関わる問題
5.「おはよう」は「オハヨウ」? →Jump there.
6.音読の重要さ (指導に影響を与えた本)
7.音読関係の書籍の紹介 →Jump there.
1.「最初の1行すら 読めません」
指導要領の改訂をうけて教科書が新しくなっていた。
興味があったのは国語の教科書だ。
ちょっとお借りして読んでみた。
ずいぶんと差し替えられており、その中に『稲むらの火』があった。
書き出しが「浜口儀兵衛は、」で始まっている。
今はこのような文章を読ませているのか・・・
ちょっと驚いた。
大人が読んでもいいような硬い表情の文章だ。
本校の5年生が読むにしては、どうも数レベル上のような気がした。
常体(だ・である)の文体が、そう感じさせただけかもしれないが、
子ども達の受け止め方を想像すると、ついて行かれるか心配になってくる教材文に思えたのだった。
近くの席で仕事をしているM山先生に授業の様子をお尋ねした。
最初の一行すら読めません。
一行目の「一八二○年」が読めませんね。 それから「儀兵衛」も。
ふりがなが振ってあるんですが、なくなると読めません。
すらすらとは読めないだろう。
そうは思っていたが、一行目からとは・・・。
読むことができないのなら、書かれている内容もさっぱりなのではないか?
M山先生は、この後いったいどんな学習展開にしていったのだろうか。
お尋ねすることも忘れていた。
ぽかんと口を開けたままだった。
2.読んでくれる人! で始まる初任の授業
初任者の国語授業を思い出した。
教科書の読みから授業が始まるのだが、どの初任者もこう言う。
24ページを開きましょう。 はい、読んでくれる人!
3,4人の手がぱっと挙がる。そのうちの一人が指名される。
これがうまい。
児童劇団の子どものようだ。
たぶん、「できる」子であろう。
読む速さもいいし、間の取り方もいいし、声もはっきりしている。
担任の期待に十分応える読みだ。
音読の上手な子どもに手本として読ませる。
そういう授業場面を設定することはある。
ただ、この頃の初任者は、
意図してのことではなく、そうするものとして読ませただけのようだ。
そのもとはおそらく、かつて自分が受けた授業かもしれないし、
よく言われる「国語の授業は読みに始まり、読みに終わる」という定石の言葉のままに行ったのかもしれない。
無理もない話ではある。
初任者にしてみれば着任早々、授業の仕方も分からずにポンと子ども達の前に立たされるのだから。
例えるならば、仮免はあれど、
教官の同乗がないのに大勢の人は乗せ、走ったこともない公道を運転しなくちゃいけない、という感じか。
授業も多い。
毎日新たに5コマも、6コマも用意しなければならない。
その中身は推して知るべしだ。
これが医師であれば、患者はとんでもない処置をされてしまうことになるのだが、
フツーにやっていれば(取りあえず)何とかなってしまう(してしまう)のが学校だ。
その部分が問題となり、世に知られるようになって、
指導力不足教員とか学級崩壊とか言われ出し、平成になって(やーっと)初任者研修システムの導入となった。
初任者の授業は、指導を受けて日に日に改善が図られていく。
年次研修(5年研、10年研など)なるものも出来た。教員は自らをバージョンUPさせていかねばならない。
かようにブラッシュアップをはかっている現場だが、
音読に限っての話にすると、その重要さにはあまり気づいていないようだ。
音読の指導をしていないのである、聞くところによると。
その指摘は、いくつかの著作物でも目にすることができる。
後に紹介する。
3.音読の力を育てる方向へ
順番に当てて、教科書を読ませていく。
音読をした子どもへは、いいも悪いもコメントをしない。
これは、ほかでもない自分の若い頃のことだ。
「指導訪問」という市教委の事業があって、授業を見た指導主事が講評をした。
音読の活動はありましたが、学びがありませんね。
そんな指摘をされても、一向に授業が変わって行かなかったのが凡庸な教員たる証しだ。
手立てが分からなかった。
授業で力をつけるという使命感、自覚も希薄だった。
学び合う場もなかったような気がする。
何をしていたんだろうか。
1980年代になって、教育関係の本が一気にオモシロくなっていった。
様々な取り組みを知ることができた。
どんどん買い込んだ。
読んでいった。
追試してみると、子ども達が乗ってきた。
導入した音読教材に嬉々として取り組んでいた。
力をつけるという言葉を実感した。
4.すらすら読めない、は学力向上に関わる問題
一コマ(45分)の国語の時間に行うことは、何だろうか。
荒く言うと3つある(と私は考えている)。
音読と漢字。
そしてその日、その単元で指導することになっている事柄。この3つだ。
漢字指導の話は別の機会に譲るとして・・・
一番目に音読の活動を挙げるわけは、
日本語の文章をすらすら読めなくてどうする。
と思うからだ。
日本人である以上、日本語で生活する以上、日本語の文章はすらすらと読めるようにさせたい。
それが、国語の授業をする者の務めだ(と思う)。
学校生活を終えても、文章を読む場面はある。
その素地を養っておかねばならない。
仕事でも、
地域の活動をする中でも、
日常生活においても書かれたものを人前で読むときがある。
すらすらと、
思いが伝わるように読めば、その情報はよりよく理解されるだろう。
逆に、すらすらと読めないというのは本人にとってどういうことか?
文字情報の入力、理解が円滑になされていないということだ。
その有様を放置することはできない。
すらすら読めるということは、子どもの学力向上に関わることなのだ。
音読は、国語の授業をする者が取組むべき重要な指導なのだ。
すらすら読める子どもは、1割程度
すらすら読める子どもは、クラスの1割程度(3,4人)だ。
彼等は、聞き手を意識しているかのような読みをするから、内容もしっかり把握していると思われる。
大抵、どの教科もできる。
つっかえ、つっかえ読む子どもは、さほど多くはない。
クラスに一人二人くらいだ。(編成にも寄る)
悲しいことに、学力不振である。
その沈んだ表情を見ているとなんとかしたい、と思えてくる。
残りの子ども達。
即ち学級の6,7割は、すらすらと読めるその一歩か二歩、三歩手前辺りにいる。
ちょっとアドバイスすれば、ぐっとよくなると思われる。
ということは、国語も他教科においても伸びが期待できるということだ。
そんな、「すらすらと読める一歩か二歩手前の子ども達」の実態はこうだ。
5.おはよう、は「オハヨウ」?
例えば、「おはよう」と書いて、読ませてみる。
子ども達は、次の3つのうちのどれかで読む。(音をカタカナで表記する)
A 「オハヨ」 ・・・ 「ヨ」で止まる。
B 「オハヨウ」 ・・・ Aの読み方に「ウ」をつける。その「ウ」ははっきりと発音する。
C 「オハヨー」 ・・・ 「ヨ」を長く引っ張る。文字で「う」と書いてあるが発音しない。
Cの「オハヨー」 ・・・ これが正しい。おはようの「よう」は「ヨー」と伸ばして読む。(長音)
これを3択にして子ども達に問うてみたことがあった。確か、3年生だったと記憶する。
どれが正しい読み方でしょう。
驚いてはいけない。
なんと半数以上が、Bに手を挙げたのである。
おはよう の「う」をはっきり発音するのが正しいというのだ。
書かれていても読まない文字がある。あるいは別な読み方をする場合がある。
そのことを忘れていたのか、いや、忘れるようなものか?
「わたしは」の「は」は、「ワ」と読む。「おとうさん」は「オトーサン」と読む。
「おかあさん」は「オカアサン」とは読まないし、「飛行機(ひこうき)」も「ヒコウキ」とは読まない。
このような実態を知ると、
単に「音読カード」を配っただけでは音読の力はつかないと分かる。
隣の先輩クラスがやっているのを見てこれはいいとまねをし、
何度かやっているうちにやめてしまった。
苦手な子どもは苦手なままなのだ。
やりもしない。
未提出を放置できないから、注意もしなきゃとなる。
子どもとの関係に陰りを来すことになる。
授業で読み方をそのとき指導するのがよい。
どう読むか、取り出して指導しなければ子どもの読む力はつかない。
6.音読の重要さ (指導に影響を与えた本)
すべての学習のもととなるのが国語の学力だ。
その基礎が「正しく読む」にあるのだが、教師の側は音読の仕方を教える意識が薄い。
これは、正に過去の自分の事だったわけだが、
音読の指導について著者のお二人が共通して述べているので、引用させていただく。
この2冊から得ることは大いにある。一気読みだ。お勧めしたい。
以下、音読の取組みに参考となった書籍を挙げる。
7.音読関係の書籍
お気づきのように、上記2冊が出版されたのは今から30年も前です。
それが一つの契機となったと思われますが、
その後、音読に関する書籍が多く出されていきました。音声言語教材や音読・朗読・暗唱のワーク集などです。
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