夏休みの宿題の定番に「読書感想文」があった。
今もそうなのだろうか。
振り返れば、
課題に出しておきながら、指導も何もしなかった。
そこは大いに反省している。
少し、振り返ってみる。
読感文という宿題
夏休みが終わった。
事務机には提出された感想文が山になっている。
100枚近くになっている。
これをすぐに読まなくてはならない。
数日後、学年会で持ち寄ることになっている。
校内で代表を選び、市の審査会へ出すのだ。
聞いたことはないが、「応募なし」ではいけないらしい。
だから、ずいぶん前から宿題の定番になっている。
一つひとつにコメントを入れながら読んでいて、ふと思う。
つまらない。
子ども達が苦労をして書いた読感文だが、つまらないのだった。
その本を読んで楽しかったとか、いい時間を過ごせたとか、自分のことを書ていない。
感想文を書くという課題が子どもにとってプラスになっていないように思ったのだった。
毎年毎年、そうなのだ。
読感文の書き方の指導をしていないのだから、当然なのだった。
このままではいかん、と思うようになった。
何を書いていたか
子ども達は物語の本を選び、感想を書いてきた。
全員といってもいいくらい、物語本の感想を書いてきた。
2つぐらいのパターンがある。
まず筋を追うもの。
「本の紹介」みたいになっている。
ところどころに「すごい」とか「えらい」とかの言葉は入っている。
だから「感想文」と言っていいのかもしれない。
だが、それを書いて何だというのか。
と、思う。
その中にまじって、
印象に残った場面を切り取って、感じたこと、思ったことを書いているものがある。
主人公の〇〇は「なぜ~したのだろう」とか「自分にはできないな」とか。
登場人物の心の動きや変容に焦点を当てて書いている点はいいかもしれない。
読書感想文など、自由に書けばいいのではないか?
そういう意見もあるかもしれないが、
学校で行う教育活動とは、向上的変容を促すことを営みとしている。
「本との出会い」が自分にとってどういうものだったのか。
そこを中心に据えて書くべきだ。
つまり、自分を書くのだ。
そうしたことを指導していかなければならない。
課題にしているのだから、その要領や技能を教えなければいけない。
読書指導から始まっている
「読書は心の栄養」とはよく聞くフレーズだ。
その言葉を借りていうなら、栄養となって成長した部分こそが大事であるはずだ。
本から自分が学んだことは何か、立ち止まって考えてみる。
自分と向き合ってみる。
そうしたことをさせたいから、
まとまった時間がとりやすい夏休みの課題にしているのだ。
そうであるならば、読書感想文の指導はもっと前から始めなければいけない。
読書は日ごろから読むように習慣づける。
「読書貯金通帳」をつくるという取組みがある。
読書の量もそうだが、ジャンルを広げて読むことも指導する。
物語に限らず、図鑑、エッセイ、伝記と読書の幅を広げさせる。
感想文はその中から選んで書くのである。
あとがき
実をいうと、
なぜ読感文を夏休みの宿題にしているのか、現場では一度も話し合ったことはない。
市の代表となる読感文を選ぶために課題にしていた。
決まりごとのように課していた。
読感文を書かせることについて考えていないわけだから、
子ども達にその意味(意義)や書き方をあまり説明もしていなかった。
そこから授業改善が始まって行った。
折しも、読書感想文の書き方なる実践を書店で見かけるようにもなった。
教育技術の共有化が進められていた。
その実践は、検索すれば出てくる。
子どもにとって意味のある、感想文を書かせたい。
その思いで指導に取組んだ成果、子どもが県の表彰を受けた。
教師力をいっそう上げるモチベーションになっていった。
子どもに力をつけさせることが使命だ。
言うまでもなく。
参考:読書がもたらす効果
読書はなぜ大切なのか?読書がもたらす効果を7つ選ご紹介します | 学研オンエア (gakken.jp)
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