在職中、夏休みの宿題に「読書感想文」があった。
今も課しているのだろうか。
振り返れば、
課題に出しておきながら、指導も何もしなかった時期があった。
そこを大いに反省している。
読感文という宿題
夏休みが終わり、2学期が始まる。
事務机には提出された読書感想文の山ができている。
すぐに読まなくてはならない。
数日後に学年で持ち寄ることになっているからだ。
選ばれた読感文は、
市の審査会へ持って行くことになっている。
「応募なし」ではいけないらしい。
そこで、疑いもなく夏休みの宿題の定番になっている。
この読感文の山を片付けるべく、意を決して読み始めるのだが、
つまらない。
きちんと課題を提出した子どもたちには申し訳ないのだが、
面白くもなんともないのだった。
そして、
この課題が子どもにとってプラスになっていないように思うのだった。
指導をしていないのだから、当然。
このままではいかん、と思うようになった。
何を書くのか?
子ども達は物語の本を選び、感想を書いてくる。
その多くは「本の紹介」といってもいい。
それは、読書感想文ではないだろう。
ところどころに「すごい」とか「感動した」とかの言葉は入っている。
だから何だというのか。
印象に残った場面を切り取って書いている子どももいる。
心の動きや変容に焦点を当てて書いている点は大いにほめたい。
他人事で終わっているところが惜しいところだ。
どんなことが書いてあればいいのか?
それは読感文を課題に出すねらいとイコールだ。
学校で行う諸々の教育活動は、向上的変容を促すことを目標としている。
とすれば、
「本との出会い」が自分にとってどういうものだったのか、を核にすべきだ。
宿題にだすなら、
読書をきっかけとして自分を見つめ、その変容を書かせなくてはならない、
と思う。
指導は、読むべき本の選定に始まる。
本の読み方(例えば、メモをとったり調べたり)も、
文章の書き方(構成、書き出し等)もて教えておかなければならない。
そうした指導があって課題を出すことになるだろう。
そう考えるようになった。
読書指導から始まっている
「読書は心の栄養」とはよく聞くフレーズだ。
その言葉を借りていうなら、
栄養となって成長した部分こそが大事であるはずだ。
本から学んだことは何か、立ち止まって考えてみる。
自分と向き合ってみる。
そうしたことをさせたいがために
まとまった時間がとりやすい夏休みの課題にしているのだ。
そうであるならば、
読書感想文の指導は夏休みの直前になって初めてやるようでは付け焼刃。
年度初めから計画的に取り組まなければいけない。
まず、
日ごろから読むように習慣づける。
「読書貯金通帳」を持たせる取組みがある。
読書の量もそうだが、ジャンルを広げて読むことも指導する。
物語に限らず、図鑑、エッセイ、伝記と読書の幅を広げさせるのである。
感想文は蓄積された既読の中から選んで書くのである。
あとがき
実をいうと、
なぜ読感文が夏休みの宿題になっているのか、学年間で一度も話し合ったことはない。
市の代表を選ぶために課題にしていた。
何も考えず、決まりごとのように子ども達に課していた。
だから、
子ども達に課題にしている意味(意義)、書き方についても話をしていなかった。
こうした反省から授業改善を始めた。
子どもにとって意味のある、感想文を書かせたい。
その思いで指導に取組むようになった。
子どもの読書感想文が県から表彰を受けたことは
教師力をいっそう上げるモチベーションになった。
子どもに力をつけさせることがこの仕事の使命だ。
言うまでもなく。
参考:読書がもたらす効果
読書はなぜ大切なのか?読書がもたらす効果を7つ選ご紹介します | 学研オンエア (gakken.jp)
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